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2001年4月の旗揚げに際して、準備を始めたのは2000年の秋ごろ。

その話は今までにもいろんな所に何度も書いてきたけど、
改めて「もっと詳しく」

kito

2000年の僕はというと、
東京中低域や渋さ知らズに初めて参加した頃で、
それまでに比べて「グン!」と世界が広がりはじめたばかりの時期。
ただ、KABB!の結成にもっと直接的な影響とも言えることは
もう少し前にあって・・・

1998年の3月か4月に当時名古屋で参加してた
サックス3管だけのバンドがあって、関西ツアーをやったのですね。
もっと個人的なことを言うと、
2月に離婚していろんなメンドクサイ事から開放されて
「また、音楽が好きなだけできるぞ〜」とちょうど意気込んでた時期。

京都で対バンになってゲストで参加させてもらったのが
大原裕さんのブラスバンド「リブラフ」だったのです。

 

yoshino

いや、もうね「意気投合とはこのことか」というぐらい、
特にチューバの吉野さんとは初対面にも関わらず
その日のうちに「大親友」ぐらい仲良くなって
(後から考えるとお互いの「人見知り度」で奇跡のような話)
その後もちょくちょく「リブラフ」に参加したり、
吉野さんと別ユニットをやったり・・・
三原くん、高岡くんなんかとも仲良くなって、
しょっちゅう関西に行くようになったのです。

もちろん、それまでも東京や大阪、
もっと遠いところにもツアーで行ったことはあったけど、
それはあくまで「バンド」であって。
単身、楽器を抱えてあっちこっち行って
現地のミュージシャンと演奏するのは実に新鮮でした。

それまで、名古屋で参加してたバンドは
それこそ「週いち」とかでリハやって・・・ ともすると本番の回数より
練習の方が多いようなバンドが多かったのですが・・・
もちろん、そうやってジックリ「作り上げていく」
というスタイルもおもしろいんだけど。

簡単な決め事だけで「その場」で作る音楽。

今、その時点で「自分の中にあるもの」だけ
で勝負する感じが楽しかった。

takaoka

 

で、そういった「やりかた」の中から
自分が苦手とすることや「もっと、こうした方がいいな」
って部分が見えてきたり。
逆に思いもよらないことが出来る自分に気付いたり。

高校生の頃以来、
自分でリーダーバンドってのをやったことがなかったんだけど
「案外むいてるのかも?」なんて思ったり。

で、その時「もし、自分がバンドをやるなら」と考えたのは
「音楽にはルールがあるけど音が自由なスタイル」

完全な「即興」ではなくて
「曲」として譜面や進行という決め事はあるんだけど、
その解釈はプレイヤー個人にまかす・・・
ものすごく簡単にいうと
「こういう曲をやります」って俺が決めて譜面を渡すんだけど、
その譜面について「こういう風に演奏してください」は言わない、
みたいな。

まぁ、特別「めずらしい」ってスタイルでもないんだけど、
自分が「他流試合」みたいな事をしているうちに
「現場対応」だけでは物足りなく感じることや、
もっと突き詰めたいと思ったことをまとめると、こうなったのですね。

で、「そうなったら」とアイデアはふくらんでいくもので
「自由な解釈をするプレイヤーは
 曲に対して大勢いた方がより効果的だろうな」とか・・・
とにかく2〜3人とか4〜5人といった「最小限」ではない、
ある意味「無駄に人が多い編成のバンド」ってのを考えたのです。

この時点では、まったく「ブラスバンド」って形態は頭になかった。
「とにかく大勢」だけ。

 

 

そんなことを考えつつも、
特に自分でアクションを起こすこともなく
ホントあらゆるジャンルの音楽スタイルと単身「他流試合」をしていて
まぁその流れで東京のバンドにレギュラー参加するようになったりした
2000年の秋。

商店街が主催するイベントで「なにかやってみない?」と。

その年の春に同じイベントで
5管アンサンブルのバンドのアレンジをやったり、
大原さんの「リブラフ」も来ていてそれに僕が参加してるのを見てたので
「鬼頭リーダーで大所帯のなにかやってみたら?」
という・・・まさに「渡りに船」のようなオファーだったのです。

 

さて、なにしようかな?

とりあえず、ここ2〜3年で知り合って
「一緒にやりたい」と思うメンバーをリストアップしてみたら・・・
う〜ん、管楽器が多い。

それに、野外で「練り歩きもやって欲しい」となると・・・
電気楽器を使わないで済むブラスバンドか〜?

mathi

 

 

そう!実は「イヤ」だったのです。

僕がやりたかった「大編成」はもっと楽器も雑多で、
ある意味楽器の編成で音楽のジャンルが限定されてしまうようなことが
ないバンドがやりたかったのです。
ブラスバンドなら「リブラフ」ってのも既に身近にあったし。

しかし、まぁ主催者が求めているのは「ブラバン的なもの」だったし、
実際管プレイヤーの方がツテあるし・・・

 

 

そんな感じで悩んでいたんですけど「中身はさておき」といった感じで
主催者から「急いで!」みたいな話が来たのです。

 

「プログラムに刷るバンド名どうします?」
「あ〜じゃあ鬼頭 哲ブラスバンドで」

「なにかキャプション入れましょうか?」
「じゃあ巨大チンドン屋で」

 

いや〜
この「あまり深くモノを考えてないやりとり」のおかげで・・・
もうちょっとマシなバンド名を考えるんだったなぁ。
そうは言ってもですね、
これは前にも書いたかもしれないけど
国民的野球まんがと言ってもいいぐらいロングセラーの
「ドカベン」だって、タイトルの由来は1巻の最初の方で
主人公が「デカい弁当を食べてた」ってだけ。
作者だって「まさか、こんなに続くとは」だったと思うんですよ。
シリーズ全体を通してみればむしろ「小食」な山田太郎なのに
最初の設定で「デブ」にしちゃって・・・
まぁ、僕も似たような失敗をしてしまったわけですね。
もちろんその時点では気付いてませんけど。

 

とにかく僕の名前がついた
「巨大なブラスバンドが商店街を練り歩く」
ということになってしまったわけです。

mati

 

 

 

ここから、僕の「せめても」で
「雑多なメンバー探し」がスタートしました。

とにかく、ここ最近知り合った管楽器奏者には全員声をかけたり。
名古屋のライブハウスのスケジュールをチェックして、
トランペットやサックスが入ったバンドをかたっぱしから見にいって・・
もうね、当然初対面ですから「自己紹介」からはじまって
「今度、こういうことやるんですけど」ってメンドクサかったです!
(その辺りで出会ったメンバーとのエピソードは
      「ブラスブログ」の過去記事を参照にしてください)

小島 弓枝の場合

しかし、その甲斐あってか
「初舞台」となった2001年4月29日の商店街の路上には・・・
残念ながら正確な資料が手元に残っていないので
ハッキリしたことは覚えていませんが、
元々呼んでいたメンバーはもちろん、
イベントに参加してた東京や関西から来ていた
管楽器プレイヤーにも声をかけて、
さらにその友達(もう全然知らない人まで)・・・
「およそ60名」の大楽団が登場したのであります。

KABB!

neri

 

rep

さて、商店街のイベントも終わり
今でこそ「旗揚げ公演」などと過去を振り返って言ってますけど、
実は「コレ1回きり」のつもりだったのです。

一応、集まってくれたメンバーには
「また、やることがあったら」みたいな話をして別れたんだけど、
それほど次回に意気込んでいたというわけではなかった。
「まぁ、また機会があれば」ぐらいで。

ところが、その「機会」は意外と早くやってきて、
もう次の5月だったかに
8月のライブハウスでのブッキング
(東京からのツアーバンドの対バンとして)
オファーがあったのです。

とりあえず「旗揚げ」の時は野外だし
リハもない「ぶっつけ」だったということで、
簡単なリフを繰り返すシンプルな曲を
名古屋のメンバーがバッキングして
東京・関西からのゲストプレイヤーがソロを取る、
といった形を中心に・・・
まぁ、悪く言えば「お茶を濁した」のですが、
今度はゆっくり座って見るお客さんだからそうもいかない。

ようするに、
野外の場合。立ち止まって聴いてくれるお客さんもいるけど、
どちらかというと流動的。
すべての瞬間が「どこを切っても」の金太郎飴のような
音楽がベストだと思うのですが、
ずっと「定点」で見てるお客さんにとっては
「それなりに」展開だとかレパートリーのメリハリだとか・・・
とにかく「曲として」「公演として」
形になってないとマズい、という。

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で、当時興味を持っていた
「各国の民謡」を取り上げることにしました。
春のイベントでもやったクレズマーでお馴染み
イスラエルの「ハバナギラ」
オーストラリアの「ワルツィング・マチルダ」
韓国の「アリラン」・・・
実はどれも僕がこの2年に参加したバンドが
レパートリーにしていた曲なので
「メロディ譜」みたいなものは持っていた、
という理由なんですが、それをKABB!用にアレンジして。

 

ただ、この「民謡を取り上げる」ということに関して
「注意した」というか「こういう風にはならないようにしよう」
としたことがあって・・・
これはKABB!をはじめるずいぶん前に、
CDの制作なんかをやってるプロデューサーと呑む機会があって、
ちょうど三味線なんかをフィーチャーした
「邦楽」のアーチストのCDを作ったすぐ後だったと思うんだけど
まぁ、そういったいわゆる「普通」のロックだとかポップスとは
違ったCDをプロデュースしてた人なので、
ちょうど僕と呑んでた時に
「売り込み」みたいなことをしてきた人がいたのです。

その人は知人の中国から来た胡弓奏者のCDを作りませんか?
みたいな話をしてきたんだけど・・・
まぁ、当時名古屋では「そこそこ」有名な人だったので
僕もプロデューサー氏も名前も演奏も聴いたことがあって、
非常に「ウマい」ということも知ってたのですが、
プロデューサー氏は「絶対作らない」と。

曰く「あの人は中国の音楽を紹介してるだけだ」と。
で、その前に作った「邦楽」のCDについては
「三味線とかを使ってるけど自分の音楽をやってる」と。

 

「なるほどね〜」と思ったのです。

当時、僕はライブハウスでバイトしていたんだけど
結構「演目」というか出演するアーティストのジャンルが多様で。
アイリッシュやフラメンコ、ラテンやブラジル音楽・・・
とにかく雑多だったんだけど、
とにかく「どこかの国の音楽を専門にやってる人達」の
なんとなく「イヤ〜な感じ」

それが、同好会やサークルのように
「ただ紹介してる」だったのですね。
う〜ん、紹介する気も本人達にはないか?
とにかく「その国の人になりたい人達」というか、
とにかく「自分の音楽ではない」ということはたしか。
(まぁ、これはマニアックな民族音楽に限らず
  「老舗」なんて言われてる地方のジャズのライブハウスでも
                同じような光景を見かけますけど)

だから、KABB!で他の国の曲を取り上げる時に
「そういう風にはならないようにしよう」と心がけたわけです。

 

まぁ、KABB!はすでに
「ブラスバンド」という形態が「ありき」になっていたのですが、
その国の曲を取り上げるからといって、
その国の楽器を使うといった形式や上辺を真似るのではなく。
ただ、その曲が現地で長く親しまれている
「スピリッツ」みたいな部分をカバーするように。

 

で、今となっては当時の心境が思い出せない部分もあるんだけど、
そういう「ただ紹介する」ではないという姿勢を表すためだったかで
8月のライブでは10年ぐらい前に作ったオリジナル曲の
「秋の足音」をKABB!用にアレンジして復活させました。

その「記念すべき」というか、今に続くメンバーに作った曲を聴いてもらう「デモ音源」の第一弾がコチラです。

ホントは1988年に作曲してお芝居に使った時の音源が
あると良かったんだけど、
カセットテープがどこにあるやら・・・
まぁ、しかしこれはこれで
現在「デモ音源」を作るときに使ってる機材や
パソコンのソフトと全然違うので時代を感じますね。

結果的にライブでこの曲をやったことが
自分の中では「効果があった」と思ってます。
イスラエルや韓国の民謡と僕のオリジナルが
「ただの曲」として並列にKABB!のスタイルで演奏される
という意味で「やりたいことができた」という気がしたような・・・
たしか、そんな感じでした。

 

 

というわけで、
初めてのライブハウスでの演奏も「おおむね成功」に終わり、
春に出たイベントの「秋バージョン」からも、
再度「練り歩き」のお誘いがあり・・・

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ここからが、俺的にはまったく予想もしなかった出来事なんですが、
そのイベントの演奏を「たまたま見た」という
他のイベント主催者や企画をしてる人から
「ウチでもやってくれませんか?」という話が
ドンドン来るようになったのです。

 

なんとな〜く
「これ、バンドとして続けて行こうかなぁ」
と思い始めホームページも立ち上げ、
同時に「うさぎのえさ」もはじめて・・・

という、
まだまだ「まさか10年続くとは」なんて
思ってもみなかった頃の話でした。

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<次回は4月中旬に更新します。>



Photo   安井 教郎
デザイン:構成  浅井 雅弘

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